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測量の歴史


測量の歴史イラスト 測量の歴史は古く、古代エジプトの時代から行われてきました。
 ここで、測量の歴史をひもといてみましょう。

日本ではじめて測量した人は?

 日本で一番はじめに測量をした人は誰でしょう?!
 それは、「伊能忠敬」です。
 測量をやっていない方でも、中学校の社会(歴史?)でそう習ったのではないでしょうか。
 今のように、測量の機械などの技術もない中、地道に測量をし、きわめて正確な地図をつくりました。

 忠敬が歩いた距離はちょうど地球一周分、約4万キロと言われています。
 忠敬の測量の最初は、江戸を出て、北へ北へと距離をはかり、緯度の観測を続けることから始まりました。
 その後は、海岸線だけでなく、主な街道筋(かいどうすじ)などの位置を正確に測量し、今残されているような地図を作りました。

 伊能忠敬らが作成した地図は、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」といい、日本全土の実測地図です。
 「伊能図(いのうず)」とも称されます。完成は、伊能忠敬没後の、文政4年(1821年)。
 伊能忠敬死後に、弟子たちが意思を引き継ぎ完成しました。

 伊能忠敬の測量は、極めて高度なものでした。
 この際の測量により、緯度1度がおよそ111キロメートル程度に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万キロメートル程度であると推測したのですが、この値は、現在計測されている数値と0.1%程度の誤差で、忠敬の測量が正確だったことを表しています。

 江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されてきましたが、文政11年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、
 これに関係した日本の蘭学者などが処罰されました(シーボルト事件)。

 シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参しています。
 ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたのですが、日本の海岸線を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したと言われています。

 忠敬の測量は、主に「導線法(どうせんほう)」とよばれる方法で行われました。そして、狂いが大きくならないように、ときどき遠くの目標となる山などをはかって修正しました。
 「導線法」では、距離を藤つるや竹でできた「ものさし」や、「歩測」ではかりました。 「歩測」は、歩くはばを一定にして、目標の場所までの歩数から、距離を求めるものです。
 忠敬の一歩は、約70センチメートルであったといいますから、目標までの歩数が1,000歩なら、かけ算をして700メートルということになります。
 次に、海岸などの曲がり角に立てた、梵天(ぼんてん)とよばれる竹竿を使用して、前の地点から目標点への角度を「小方位盤(しょうほういばん:わんかららしんとよんでいた)」などで測ります。 これをくりかえして、ノートに書きこみます。
 そして、ときどき富士山などの目標となる高い山や、星を「小方位盤」、「象限儀」などで測って、測量の狂いを修正しました。
 とても、気の遠くなるような作業ですが、現在の計測されている数値とほんの少ししか誤差が出ていないなんて、昔の人は、本当にすごいですね!!

伊能忠敬よりも古い地図が沖縄に??

伊能忠敬の地図よりも、もっと古い精密な地図が沖縄にありました。

【以下、日本経済新聞、2004年1月4日号より引用】
それが、琉球政府の尚(しょう)家に長く秘蔵されてきた「琉球国之図」。南海の王国として栄えた琉球には、そんな知られざる宝物が眠っていたのです。

この「琉球国之図」が作成されたのは、1796年。日本初の測量に基づく地図を作った伊能忠敬が第一次の調査を始める4年前のことです。
この「琉球国之図」からは、琉球王府の測量にかけた意気込みが伝わってきます。検地に直接関係なさそうな、離島の断崖絶壁まで測量していたのです。
そして、驚くべきは、琉球でいち早く試みられた測量の精度。
1740年代に作成された田畑測量図の精度を調べた際、米軍が撮影した空中写真と同じ縮尺にして重ね合わせたところ、二つの地図は寸分の誤差なく一致したそうです。
沖縄での測量は、1740年代後半に始まったと見られていて、伊能忠敬の60年も前だったことになります。
なぜ、そんなに早く、忠敬の技術とさほどレベルの違わない高度な測量技術が確立できたのでしょうか?

大きな役割を果たしたのは、琉球王国の宰相、蔡温(1682-1761)です。
1700年代初めの中国には、西洋の測量技術が伝えられていました。
蔡温は、その最新技術を琉球へ持ち帰り、器具を簡素化して持ち運びしやすくするなど
琉球独特のものにアレンジしました。

王国が誇る秘蔵地図の基になった「間切集成図」には、ペルシャンブルー(べろ藍)という人工顔料が使われました。
ヨーロッパ生まれのこの顔料を日本で最初に使ったのは葛飾北斎とされてきましたが、
その30年前、琉球の地図製作者は一足早く、「オキナワン・ブルー」として使い始めていたのです。


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